Masuk窓辺の時計は、細い音を刻み続けていた。
こつ、と針が進むたび、視界の赤い数字も一秒ずつ減っていく。
〈暗殺イベント開始まで:23時間34分12秒〉
リディエラは表示から目を離し、机の上の使用人帳簿を開いた。
ネレス・カルヴァディンが自分を狙う理由を探る必要がある。学院の予定も、七日後の断罪へ至る罪状も調べなければならない。それでも、最初に片づけるべきことは別にあった。
帳簿には、フェルニカの名が何度も記されている。
茶器破損による罰金。呼び出しへの遅刻による減給。主人の都合で取り消された休暇。
日付と金額だけが整然と並び、そのために彼女が何を失ったのかは、どこにも書かれていない。
リディエラは呼び鈴へ手を伸ばし、触れる前に止めた。
呼べば、フェルニカは来なければならない。顔を見たくなくても、公爵令嬢の命令を拒むことは難しい。謝罪する者が権力を使って相手を自分の前へ立たせる。それでは、また選択を奪うことになる。
リディエラは自ら扉を開いた。
廊下には、灰色がかった髪を固く結った年嵩の侍女が控えていた。主人が突然姿を見せたことに驚き、肩を強ばらせる。
「フェルニカへ、面会を願っていると伝えてください」
侍女の細い眉が動いた。
「お叱りになるのでしたら、医師から本日は安静にと申しつかっております」
「叱りません。今朝のことと、それ以前のことについて確認したいのです。ただし、会いたくないなら断って構わないと伝えてください」
「断っても、よろしいのでございますか」
問い返す声には、疑いが滲んでいた。
昨日までのリディエラなら、拒絶を許すと言いながら、あとで不敬として罰したのかもしれない。
「ええ。断ったことを理由に、何かを取り上げることもしません」
侍女はしばらくリディエラを見つめたあと、深く一礼して廊下の角へ消えた。
扉を閉めると、甘い香水と暖炉の薪の匂いが戻ってくる。
リディエラは机へ、返還額を記すための紙と支出申請書を並べた。鏡台から見つけた会計印も置く。私財がどれほどあるかは分からないが、宝飾品を売れば幾らかは作れるだろう。
やがて扉が三度叩かれた。
「フェルニカ・ロウゼでございます」
「入ってください」
最初に入ってきたのは、頬へ白い布を当てたフェルニカだった。腫れは朝より濃くなり、左目の下まで赤みが広がっている。
その半歩後ろに、褐色の髪を編み込んだ別の侍女が立っていた。盆も衣類も持たず、両手を前で重ねている。
付き添いではない。
証人だ。
以前のリディエラなら、無断で第三者を伴ったことを不敬と断じただろう。
誰の許可を得たの。
私を信用していないの。
侍女の分際で。
その言葉が、自分のものではないのに喉の近くまでせり上がる。身体の奥に残った習慣が、怒るべき場面だと訴えていた。
リディエラは机の縁から手を離し、掌を見える位置へ下ろした。
「その方は?」
「侍女のアデラでございます。私一人では、お嬢様のお言葉を正確に覚えていられないかもしれませんので、同席をお願いしました」
フェルニカの口調は整っていたが、瞳は少しも笑っていない。
「認めます。必要なら、すべて書き留めてください。扉も開けたままで構いません」
アデラが扉を大きく開いた。廊下の冷えた空気が流れ込み、暖炉の火が細く揺れる。
フェルニカは椅子を勧められる前から、出口に近い場所で立ち止まっていた。リディエラも座らず、机を挟まない位置へ立つ。
「お尋ねになりたいこととは、何でしょうか」
「私があなたへ行ったことを確認したいのです」
「今朝のことでございますか」
「今朝だけではありません」
フェルニカの肩が固くなる。アデラの衣擦れが、小さく響いた。
リディエラは帳簿を開いた。
「今朝、私はあなたの左頬を打ち、指輪で皮膚を傷つけました」
返事はない。
「三日前、茶器を割ったことを理由に、月給の半分を罰金として取り上げました。二週間前には、呼び出しが遅れたとして二日分の賃金を減らしています。その時、あなたは厨房で火傷をした侍女の手当てをしていたと、別の記録にありました」
フェルニカの瞳が揺れた。
「先月は休暇を三度取り消しています。三度目だけ、理由が書かれていません。何があったのですか」
長い沈黙のあと、フェルニカが答えた。
「妹に会いに行く予定だと申し上げたからです」
「それだけですか」
「お嬢様は、仕える身でありながら、自分の都合を優先するのは許せないと」
「妹御は、どちらに?」
「王都の南区で、縫製工房に勤めておりました」
過去形だった。
リディエラの指が帳簿の紙を押す。
「今は?」
「分かりません。会いに行けるはずだった日に行けず、そのあと工房が移転しました。新しい場所を尋ねても、教えてもらえませんでした」
帳簿には、休暇取消としかない。
だが、その一日を奪ったことで、姉妹をつなぐ糸まで切れたかもしれない。
「ほかにもあります」
フェルニカの声に怒気が混じった。
「お尋ねになるのでしたら、すべて申し上げます」
「お願いします」
「冬の初め、熱を出しても休ませていただけませんでした。夜会のドレスを整えている途中で倒れ、医務室へ運ばれました。治療費は私の賃金から引かれています」
アデラが息を呑む。
「昨年、母が亡くなった時、葬儀へ出るため二日の休暇を願いました。お嬢様は一日だけなら許すとおっしゃいました。馬車代を前借りしたいと頼むと、身内の不幸を理由に主人へ金を求めるのは恥知らずだと」
フェルニカの手が、前掛けの上で握られる。
「結局、間に合いませんでした」
暖炉で薪が弾けた。
乾いた音だけが、誰も口を開かない部屋へ落ちる。
リディエラには、慰めの言葉を口にする資格がないように思えた。
つらかったでしょう。
知らなかったのです。
どれも、傷を受けた者へ届く前に、自分を守る言い訳へ変わってしまう。
「ほかには」
声が少し掠れた。
フェルニカは唇を歪めた。
「まだお聞きになりますか」
「あなたが話せる範囲で」
「何のために」
その問いは鋭かった。
「何のために、今になって一つずつ確かめるのですか。私がどこまで覚えているか調べるためですか。帳簿と違うことを言えば、嘘をついたと罰するためですか」
「違います」
「では、何ですか」
フェルニカの呼吸が乱れた。頬の傷が痛むのか、包帯へ手を当てかけ、途中で下ろす。
「突然お優しくなって、過去を並べて、何をお望みなのですか。私が泣いて感謝すればよろしいのですか。お嬢様は変わられたと、皆へ言えばよいのですか」
「何も言わなくて構いません」
「でしたら、なぜ呼び戻したのです」
リディエラはすぐに答えられなかった。
謝りたいから。
返したいから。
間違いを正したいから。
どれも自分を主語にした理由だった。フェルニカのためと言いながら、罪悪感を軽くするために赦しを求めているのではないか。
リディエラは両手を身体の前で重ねた。
「あなたを殴ったこと、賃金を奪ったこと、必要な休暇を認めなかったこと、治療費まで負担させたことを謝罪します」
頭を下げる。
長い黒髪が肩から滑り、頬の脇へ垂れた。
「申し訳ありませんでした」
喉の奥が焼けるように熱い。
それでも、許してほしいとは言わなかった。許しを求めれば、フェルニカへ返事を迫ることになる。
本当の自分は違うとも言わない。中身が別人であることは、傷を負った側には関係がない。
これから信じてほしいとも言わない。信頼は、加害した側が期限を決めて要求するものではなかった。
リディエラは顔を上げ、フェルニカの目を見る。
「謝罪はします。ただし、許すかどうかを決めるのはあなたです」
フェルニカの喉が小さく動いた。
「私は、許しません」
声は静かだった。
怒鳴られるよりも、逃げ道がなかった。
リディエラは頷く。
「分かりました」
「分かるはずがありません」
「そうかもしれません」
「謝れば終わると思っておられるのでしょう」
「終わるとは思っていません」
「では、どうなされるおつもりですか」
リディエラは机の書面を二人から見える位置へ置いた。
「帳簿に残っている罰金と減給分を、すべて返します。医療費も公爵家の負担へ訂正します。取り消した休暇は未取得分として加算します」
フェルニカの顔から、僅かに血の気が引いた。次の瞬間、怒りが浮かぶ。
「お金で解決なさるおつもりですか」
「お金だけで解決するとは思っていません」
「同じことです。金貨を渡して、これで文句はないでしょうと」
「文句を言う権利は残ります」
フェルニカが息を詰めた。
「お金で返せないものがあります。お母様の葬儀へ間に合わなかったことも、妹御の居場所が分からなくなったことも、私には戻せません。受けた恐怖や、今朝の傷を金額へ置き換えられるとも思っていません」
リディエラは書面の空欄へ視線を落とす。
「しかし、お金で返せる損害すら返さない理由にはなりません」
フェルニカは黙った。
アデラが紙へ目を落とし、支出申請書の会計印を確かめる。
「これを、私に書けと?」
「帳簿にないものを確認したいのです。ただ、あなたが書きたくないなら、私が記録から調べます。足りない分は、あとから申し出られる形にします。申告しなかったことを理由に、返還を拒むことはしません」
「命令ではないのですか」
「違います。被害を受けたあなたへ、さらに作業を押しつけるべきではありませんでした」
フェルニカは開いた扉へ一度視線を向ける。
「返していただいたとしても、私はお嬢様を信じません」
「はい」
「皆にも、変わられたなどとは申しません」
「構いません」
「今朝のことを忘れもしません」
「忘れなくてよいです」
フェルニカの眉が寄った。
「なぜ、そのようなことを」
リディエラは自分の右手を見た。
朝には血が付いていた手。いまは洗われ、傷つけた痕など何も残っていない。
「忘れてほしいと願うのは、私に都合がよいからです。痕が消えた側から、覚えている側へ忘れろとは言えません」
フェルニカの視線も、その手へ落ちる。
すぐに逸らされた。
長い沈黙ののち、彼女は机へ一歩近づいた。まだ手が届かない距離を保ったまま、書面を上から読む。
「いつ、返されるのですか」
「私財ですぐ用意できるなら本日中に。公爵家の承認が必要なら、理由と期限を書面で渡します」
「奥様がお許しになるとは思えません」
母エネファの冷たい声が、身体の記憶から蘇る。
下の者へ謝れば、つけ上がる。
痛みを覚えさせなければ、忠誠は得られない。
「許可が必要かどうかも含めて調べます」
「途中でお気持ちを変えられたら?」
「申請書と帳簿の写しを、あなたとアデラへ渡します。もう一部は会計係へ。私が撤回したことが分かるようにしてください」
アデラが初めて口を開いた。
「私が保管しても、よろしいのでしょうか」
「ええ。私だけが持つことはしません」
二人の間で、短い視線が交わされる。
やがてフェルニカは紙の端へ触れた。
「必要なことだけ、お答えします」
「お願いします」
「帳簿にない罰金は、金貨二枚です。昨年の夏、香水瓶を倒したとして」
「実際に倒したのは?」
「窓から入った猫です。ですが、窓を閉め忘れた私の責任だと」
リディエラは書き込む。
羽根筆が紙を擦る音だけが続く。
「治療費は、冬の発熱で銀貨十二枚。厨房で腕を火傷した時に銀貨六枚です」
「火傷は、私の命令に関係していますか」
「夜会からお戻りになったあと、湯浴みをすぐ用意するよう命じられました。湯が熱すぎるとお叱りになり、桶を蹴られました」
筆先が止まる。
「その湯で?」
「腕にかかりました」
「痕は残っていますか」
「ございます」
見せてほしいとは言わなかった。
確認のためでも、傷痕を晒すよう求めるべきではない。
「医師の記録を確認します。記録がなくても、最初からあなたの申告を嘘とは決めません」
フェルニカは、疑うようにリディエラを見る。
「アデラや医師への確認はするかもしれません。ただし、あなたを罰するためではなく、支払う記録を整えるためです」
窓の外から鐘が聞こえた。
空中の赤い時間は、今も減っている。
それでもリディエラは急かさなかった。
フェルニカは、奪われた金額と日付を一つずつ答えた。休暇を取り消された日。夜通し働かされた回数。主人の機嫌を損ねたとして食事を抜かれた夜。新しい靴のために貯めていた金を、壊れてもいない髪飾りの弁償へ充てさせられたこと。
リディエラは黙って書いた。
途中で弁解せず、身体に残る記憶と食い違っても訂正を求めなかった。
紙の上へ並ぶ数字は、好感度より重かった。
金貨二枚。
銀貨十八枚。
休暇七日。
食事四回。
返せるものと、二度と返せないものが、同じ頁に並んでいる。
最後の項目を記し終えると、フェルニカは深く息を吐いた。怒りを吐き出して軽くなったのではない。傷口を一つずつ開いたために、朝よりも疲れて見えた。
「以上でございます」
「話してくださったことを、軽く扱いません」
フェルニカは答えなかった。
アデラが書面と帳簿の写しを受け取る。紙を折らず、胸元へ抱えるように持った。
フェルニカは形式だけの礼をし、扉へ向かう。
廊下へ出る直前、彼女は足を止めた。
振り返らないまま、低い声で言う。
「謝罪は、受け取りません」
「分かりました」
「返還されるものは受け取ります。母の葬儀へ行けなかったこととは、別ですから」
リディエラは胸の前で指を握った。
「はい。別のことです」
フェルニカの肩が僅かに揺れた。
扉が閉まる。
一人になった部屋で、暖炉の火がひどく遠く見えた。
リディエラは椅子へ腰を下ろし、書き込んだ頁を見つめる。
謝罪はした。
許されなかった。
当然だった。
胸の奥に鈍い痛みはある。謝れば、少しは表情が和らぐのではないかと期待していた自分もいた。
その期待を、相手へ背負わせてはいけない。
リディエラは頁の端へ、一文を書き足す。
謝罪と返還は、赦しの代価ではない。
記録を終えた指には、羽根筆の軸が食い込んだ赤い跡が残っていた。フェルニカの傷に比べれば、痛みと呼ぶほどのものではない。それでもリディエラは、指先を無意識に擦ろうとして止める。自分の小さな痛みだけを先に慰める仕草が、ひどく身勝手に思えた。
前世では、謝ったあとに相手が笑わないと不安になった。母が黙ったままなら、謝り方が足りなかったのだと思い、さらに自分を下げる言葉を探した。そうして相手の機嫌が直れば、問題も消えたことにしていた。
だがフェルニカの怒りは、リディエラが耐えるためにあるのではない。彼女が受けた損害の形であり、奪われたものを奪われたままにしないための境界だった。謝罪した自分が苦しいからといって、その境界を越える権利はない。
筆を置いた瞬間、淡い光が視界へ浮かんだ。
フェルニカの名だった。
だが、五人の攻略対象にあった数字はない。
〈フェルニカ・ロウゼ:警戒継続〉
それだけだった。
好意が上がったとも、信頼を得たとも書かれていない。
リディエラは落胆しなかった。
謝罪は、好かれるためにしたものではない。
数値が変わらなくても、許されなくても、返すべきものは返さなければならない。
表示が消えた直後、机の上の返還帳簿が、風もないのに一枚だけめくれた。
白い頁の中央へ、見覚えのない黒い文字が滲み出す。
〈悪役令嬢の役割から逸脱しました〉
続いて、もう一行。
〈生存ポイント:100→97〉
謝罪したことで、命が削られた。
赤い数字の横で、暗殺までの時間だけは変わらず減り続けている。
返すべきものを返せば、生き残るための猶予が減る。過去のリディエラと同じように振る舞えば、世界は彼女を正しい位置へ戻すのだろう。
リディエラは震えかけた手で帳簿を閉じた。
その表紙の下から、先ほどまでなかった黒い紙片が半分だけ覗いていた。引き抜くと、白い文字が一行だけ浮かぶ。
〈正しい悪役令嬢へ戻ってください〉
読書室の時計が深夜を告げても、ティルヴァンは帰ろうとはしなかった。侍従にはすでに「呼ぶまで入るな」と告げてあり、閉ざされた扉の向こうから人の気配だけが薄く伝わってくる。暖炉の薪は半分ほど灰になり、窓硝子へ映る二人の姿も、揺れる火の光に合わせて何度も輪郭を失っていた。リディエラは斜め向かいの椅子に座ったまま、黒ミッションの残り時間を確認しないよう努めていた。 見れば焦る。焦れば、あと少しだけティルヴァンを押せばよいという考えが必ず浮かぶ。母の死、エルドの処刑、ロディマスとの関係、自分が十一歳だったという事実。そのどれか一つを強く言葉にすれば、赤くなった彼の目から涙を落とせるかもしれない。だからこそ、リディエラは何も足さなかった。 ティルヴァンは一度封筒へ戻したはずの手紙を、再び取り出した。レナ・ファネスが自分の手で作った写しであり、端には彼女の署名が残っている。父親が最後に家族へ残した手紙は、処刑の正当性について論じる文書ではなかった。妻の薬、家賃の支払日、娘の裁縫道具、冬物の外套を直す場所。その生活の途中へ、たった一行だけ王太子の名が入り込んでいた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 ティルヴァンが声に出した。すでに何度も読んだはずなのに、初めて読む文章のように一語ずつ区切っている。その指先は、ほかの行では止まらなかったのに、その一文へ戻るたび動きを失った。「子どもだった」 もう一度、低く繰り返す。 リディエラは返事をしなかった。そうです、あなたは十一歳でした、と言うことは簡単だったが、その言葉を彼が何のために求めているのか分からない。許してほしいのか、自分を責める材料として否定してほしいのか、それともただ事実を確かめたいのか。本人の言葉より先に意味を与えれば、また自分が答えを奪うことになる。「私は十一歳だった」 今度は、自分自身へ確認するようにティルヴァンが言った。「はい」「でも、王太子だった」「はい」「どちらも、本当なんだね」「そうだと思います」 ティルヴァンは紙から顔を上げなかった。王族として生まれた瞬間から、年齢とは別に役割が置かれていたのだろう。六歳で公式晩餐へ座り、八歳で外国使節を迎え、十歳で民衆の前に立った少年へ、周囲は子どもだから間違えてよいとは教えなかった。幼いのに立派だ、年齢以上に落ち着いている、未
暖炉の火が低くなり始めても、ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙を膝へ置いたまま動かなかった。封筒は折れていないのに、何度も握られた端だけが柔らかくなっており、濃紺の瞳にはまだ薄い赤みが残っている。涙は落ちていない。リディエラは向かいの椅子に座り、視界の隅で減り続ける黒ミッションの時間を一度だけ確認すると、すぐ表示を閉じた。「婚約者に、こんな話をするべきではなかった」 ティルヴァンは自嘲するように言い、椅子の背へ預けていた身体を起こした。乱れてもいない袖口を整え、膝の上の手紙も端を揃えて封筒へ戻そうとする。その一連の仕草が、崩れかけた自分を王太子の形へ戻しているように見えた。リディエラは「そう思われるのですか」とだけ尋ね、慰める言葉を先回りして置かなかった。「王族が弱みを見せれば利用される。幼い頃から、何度もそう教えられた。今さら忘れたわけではないのに、今日は話しすぎた」 ティルヴァンは水杯へ手を伸ばしたが、飲まずに戻した。母を失ったことも、エルドを告発したことも、父に褒められたかったことも、自分が正しかったと信じたかったことも、彼にとっては他人へ渡すべきでない情報なのだろう。リディエラは、黒い選択肢にあった「自分だけが理解者であると告げる」という言葉を思い出した。ここで「私だけには話してください」「私は裏切りません」と言えば、優しい婚約者として彼の最も近い場所へ座れるのかもしれない。「私が今聞いたことを利用すると思いますか」 ティルヴァンはすぐには否定しなかった。以前のリディエラなら、彼が何に傷つくかを知れば、それを避けて好かれようとし、必要なら逆に触れて相手を動かしただろうと静かに答える。今のリディエラが同じことをしない可能性は感じていても、未来まで保証できる材料はないという。その言葉は冷たかったが、リディエラ自身も同じことを考えていたため、否定できなかった。「その通りです。ですから、今後私へ話さないと決めても構いません」 ティルヴァンの眉がはっきり寄った。リディエラは彼の表情が変わっても説明を急がず、拒絶されたと感じる時間まで奪わないよう待った。暖炉で薪が割れ、乾いた音が読書室へ響く。やがてティルヴァンは、理解できないものを見るように彼女へ問い返した。「それでいいのか。普通なら、ここで『私だけには話してください』とか、『私はあなたを裏切り
読書室の暖炉では、薪が低い音を立てながら崩れていた。ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙の写しを膝へ置いたまま、先ほどからほとんど姿勢を変えていない。それでも王太子として人前に立つ時の整った座り方とは違い、背中は椅子へ預けられ、右肩だけがわずかに落ちている。リディエラも向かいの席へ座ったまま言葉を探さず、暖炉の火が揺れるのを見ていた。 黒い表示は視界の端へ残っている。〈黒ミッション残り時間:7時間02分18秒〉〈対象の涙:未確認〉 数字は減り続ける。ここまで来ても、ティルヴァンは泣いていない。母の死を語り、自分の証言で処刑されたかもしれない男の最後の手紙まで読んだ。それでも濃紺の瞳に涙は浮かばなかった。以前のリディエラなら、あと一言、もう一つ深い傷へ触れればよいと考えただろう。黒い画面も、きっと同じことを望んでいる。 リディエラは表示を閉じた。 残された7時間が自分の命に直結していても、それを目の前の人間へ背負わせることだけはしたくない。「母上を助けたかった」 不意にティルヴァンが言った。 リディエラは暖炉から視線を戻す。「十一歳の時ですか」「そう」 ティルヴァンは手紙ではなく、自分の両手を見ていた。「母上が体調を崩すことは、それ以前にもあった。でも、いつも数日で戻った。私は子どもだったから、病気というものは医師が来て薬を飲めば治ると思っていた」 声は静かだった。ただ、その静けさはこれまでのように感情を完全に押し込めたものではなく、言葉にしながら一つずつ確かめているように聞こえた。「エルドが薬瓶を持って部屋から出てきた時、何かがおかしいと思った。もし母上へ悪いものを飲ませようとしているなら、すぐ父上へ伝えなければならないと」「王妃陛下を守るために?」「それもあった」 少し間が空く。「父上に褒められたかった」 リディエラは瞬きをした。 ティルヴァンは目を伏せたまま続ける。「当時、父上は私へよく言っていた。王太子は、誰より早く危険へ気づかなければならない。臣下が見落とすものを見つけ、国を守る判断をしろ、と」 幼い少年へ与えられた言葉だった。王としては当然の教育だったのかもしれない。けれど十一歳の子どもにとって、父王から求められる「正しい判断」は、そのまま父に認められる方法でもあったのだろう。「エルドのことを報告した時、
ティルヴァンが息を吸ってから話し始めるまで、読書室には長い沈黙があった。暖炉の火が小さく鳴り、窓の外では夜へ向かう空が少しずつ青みを失っている。彼の膝にはエルド・ファネスの手紙の写しが開かれたまま置かれ、右手の親指だけが紙の端を押さえていた。そこには王妃を殺した人物の名も、毒を入れたという自白も、誰かを告発する文章もない。ただ死を目前にした父親が家族の暮らしを案じ、その中に一行だけ、十一歳の王太子を責めるなと書き残している。 リディエラは向かいから手紙を覗き込まなかった。すでに内容を知っているからでもあるが、今ティルヴァンがどの行で指を止め、どんな顔をしているかを観察すること自体が、黒いミッションのための材料集めに変わりそうだったからだ。残り時間は確実に減っている。それでも、彼が泣く兆候を探すためにこの場へ残ったのではないと、自分へ何度も言い聞かせた。「母上が倒れる前の日だった」 ティルヴァンの声は、いつもの王太子として話す時より低かった。「夕食のあと、私は父上の執務室から自分の部屋へ戻る途中だった。母上の私室の前を通った時、扉が開いた」 彼の視線は手紙に落ちたままだった。「出てきたのが、エルドだった」 リディエラは何も言わない。「母上付きの侍従だから、そこにいること自体は不自然ではなかった。でも、手に薬瓶を持っていた」 十一歳のティルヴァンが目にした場面が、彼の声だけで少しずつ輪郭を持っていく。王宮の長い夜の廊下。壁際の魔術灯。母の私室から出てくる侍従。そして男の手の中にある、小さな薬瓶。「どのような瓶でしたか」 リディエラが尋ねると、ティルヴァンは少し考えた。「茶色い硝子。掌に収まるくらい。母上が飲んでいた薬と同じ形だったと思う」「中身は?」「見ていない」 即答だった。「瓶の蓋が開いていたかも分からない。ただ、エルドがそれを持って母上の部屋から出てきた。それだけだ」 彼はそこで一度言葉を止めた。以前なら「だから疑うのは当然だった」と結論まで続けたのかもしれない。今は、見たものと考えたことを分けようとしているようだった。「エルドは殿下に気づきましたか」「気づいた。私へ礼をした」「何か話しましたか」「母上がもう休んでいる、と言った。私は、なぜ薬を持っているのか聞いた」「答えは?」「薬師へ戻すためだ、と」 ティルヴァ
王太子から届いた返書は、夜が明けても机の中央に置かれたままだった。ティルヴァンの整った文字は短く、何度読み返しても意味は変わらない。〈知りたい。ただし、君が私を傷つけるために見つけたものなら、今は聞きたくない〉。リディエラはその一文を前に、手紙の内容を知らせる許可をレナからまだ得ていないことを確かめるように、文書入れの鍵へ指を置いた。知りたいというティルヴァンの選択が出たからといって、今度はレナの選択を飛ばしてよい理由にはならない。 午前の講義が始まる前、リディエラは王都南区の仕立て屋へ短い使いを出した。公爵家の名ではなく、先日と同じ「リディエラ」の名で、エルド・ファネスの手紙について所有者へもう一度確認したいことがある、とだけ伝える。返事は昼前に届き、レナ自身が書いた紙には、王太子本人が知りたいと望んだのなら写しを見せてもよいこと、ただし一部分だけを抜き出さず、父の手紙を最後まで読ませてほしいことが記されていた。〈あの一文だけを、父が王太子を許した証拠にはしないでください〉という追記を読み、リディエラは何度も頷いた。 黒い表示は、そんな確認を待ってはくれなかった。視界の端では残り時間が減り続け、昼を過ぎた頃には〈黒ミッション残り時間:7時間18分42秒〉と表示されている。その下には〈高強度感情刺激候補:使用可能〉という文字が脈打ち、早く手紙を使えと急かすようだった。リディエラは表示を閉じ、レナから届いた許可書と写しを別々の封筒へ入れた。今日ティルヴァンへ渡すのは、攻略のための切り札ではなく、二人の人間がそれぞれ選んだ結果として開示される一通の手紙でなければならなかった。 面会の場所に指定されたのは、王太子執務室ではなく王宮東翼の小さな読書室だった。公務用の部屋ほど人の出入りがなく、それでも完全な私室ではない。扉の外には侍従が一人控え、室内には窓が二つ、暖炉の前に向かい合う椅子が置かれている。リディエラが入ると、ティルヴァンは窓際に立っていたが、彼女が持つ文書入れへ一度視線を落としてから、静かに席を勧めた。「返事を読みました」「だから来た?」「はい。ただ、その前に手紙の所有者へ、内容を殿下へお見せしてよいか改めて確認しました」「所有者?」「エルド・ファネスの娘です。レナ・ファネス。現在24歳で、王都南区で仕立て屋を営んでいます」 ティルヴァンの
レナ・ファネスから渡された手紙の写しは、帰宅してから一度も引き出しの奥へしまえなかった。 薄い紙一枚だった。原本ではない。レナ自身が必要な部分を写し、条件を決めたうえで預けたものだ。それでも机の上へ置いてあるだけで、黒い帳簿や王宮記録局の複写より重く感じた。窓の外では夜の王都へ細かな雨が降り始め、硝子を伝う水滴が燭台の光を何本にも歪めている。 リディエラは椅子へ座ったまま、写しの一行を見つめていた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 それ以外には、妻の薬代や家賃、娘の裁縫道具についての細かな指示が続いている。王家への呪いも、無実を叫ぶ言葉もない。だからこそ、その一行だけを切り離してティルヴァンへ差し出すことが、ひどく暴力的に思えた。 視界の隅で黒い表示が開く。〈黒ミッション残り時間:18時間43分17秒〉〈対象の涙:未確認〉 さらに、これまでになかった文字がその下へ浮かんだ。〈高強度感情刺激候補を検出〉〈関連対象:エルド・ファネス〉〈推奨使用:有効〉 リディエラは眉を寄せた。システムは、この紙を見つけた瞬間から用途を決めている。十一歳の自分が告発した男から、最後に「責めるな」と庇われていたと知れば、ティルヴァンの感情は大きく動く。罪悪感なのか、怒りなのか、悲しみなのかは関係ない。ただ本物の涙が出ればよい。 成功報酬は生存ポイント+30。失敗すれば-60。現在107だから、失敗後は47まで落ちる。黒い数字を眺めるほど、紙が手段に見えてくる。これを今夜王宮へ持っていき、ティルヴァンへ見せればいい。レナの許可が必要なら、内容を見せる前に取りに戻ればいい。その上で告発した日のことを尋ね、母の死とエルドの処刑を一緒に突きつける。それだけで達成する可能性は、これまでよりずっと高い。 リディエラは写しへ伸ばしかけた指を止めた。 目的が間違っている。 ティルヴァンが知るべきだから見せるのではない。本人が知りたいと望んだからでもない。自分が生き残るため、彼を泣かせるために見せようとしている。それでは、真実そのものを刃へ加工しているだけだった。 では、隠せばよいのか。 レナの父が最後に残した言葉を、自分だけが知ったまま封じる。ティルヴァンが生涯知らなかったとしても、「知らない方が幸せだ」と自分が判断して黙っている。そこまで考えると、