INICIAR SESIÓN窓辺の時計は、細い音を刻み続けていた。
こつ、と針が進むたび、視界の赤い数字も一秒ずつ減っていく。
〈暗殺イベント開始まで:23時間34分12秒〉
リディエラは表示から目を離し、机の上の使用人帳簿を開いた。
ネレス・カルヴァディンが自分を狙う理由を探る必要がある。学院の予定も、七日後の断罪へ至る罪状も調べなければならない。それでも、最初に片づけるべきことは別にあった。
帳簿には、フェルニカの名が何度も記されている。
茶器破損による罰金。呼び出しへの遅刻による減給。主人の都合で取り消された休暇。
日付と金額だけが整然と並び、そのために彼女が何を失ったのかは、どこにも書かれていない。
リディエラは呼び鈴へ手を伸ばし、触れる前に止めた。
呼べば、フェルニカは来なければならない。顔を見たくなくても、公爵令嬢の命令を拒むことは難しい。謝罪する者が権力を使って相手を自分の前へ立たせる。それでは、また選択を奪うことになる。
リディエラは自ら扉を開いた。
廊下には、灰色がかった髪を固く結った年嵩の侍女が控えていた。主人が突然姿を見せたことに驚き、肩を強ばらせる。
「フェルニカへ、面会を願っていると伝えてください」
侍女の細い眉が動いた。
「お叱りになるのでしたら、医師から本日は安静にと申しつかっております」
「叱りません。今朝のことと、それ以前のことについて確認したいのです。ただし、会いたくないなら断って構わないと伝えてください」
「断っても、よろしいのでございますか」
問い返す声には、疑いが滲んでいた。
昨日までのリディエラなら、拒絶を許すと言いながら、あとで不敬として罰したのかもしれない。
「ええ。断ったことを理由に、何かを取り上げることもしません」
侍女はしばらくリディエラを見つめたあと、深く一礼して廊下の角へ消えた。
扉を閉めると、甘い香水と暖炉の薪の匂いが戻ってくる。
リディエラは机へ、返還額を記すための紙と支出申請書を並べた。鏡台から見つけた会計印も置く。私財がどれほどあるかは分からないが、宝飾品を売れば幾らかは作れるだろう。
やがて扉が三度叩かれた。
「フェルニカ・ロウゼでございます」
「入ってください」
最初に入ってきたのは、頬へ白い布を当てたフェルニカだった。腫れは朝より濃くなり、左目の下まで赤みが広がっている。
その半歩後ろに、褐色の髪を編み込んだ別の侍女が立っていた。盆も衣類も持たず、両手を前で重ねている。
付き添いではない。
証人だ。
以前のリディエラなら、無断で第三者を伴ったことを不敬と断じただろう。
誰の許可を得たの。
私を信用していないの。
侍女の分際で。
その言葉が、自分のものではないのに喉の近くまでせり上がる。身体の奥に残った習慣が、怒るべき場面だと訴えていた。
リディエラは机の縁から手を離し、掌を見える位置へ下ろした。
「その方は?」
「侍女のアデラでございます。私一人では、お嬢様のお言葉を正確に覚えていられないかもしれませんので、同席をお願いしました」
フェルニカの口調は整っていたが、瞳は少しも笑っていない。
「認めます。必要なら、すべて書き留めてください。扉も開けたままで構いません」
アデラが扉を大きく開いた。廊下の冷えた空気が流れ込み、暖炉の火が細く揺れる。
フェルニカは椅子を勧められる前から、出口に近い場所で立ち止まっていた。リディエラも座らず、机を挟まない位置へ立つ。
「お尋ねになりたいこととは、何でしょうか」
「私があなたへ行ったことを確認したいのです」
「今朝のことでございますか」
「今朝だけではありません」
フェルニカの肩が固くなる。アデラの衣擦れが、小さく響いた。
リディエラは帳簿を開いた。
「今朝、私はあなたの左頬を打ち、指輪で皮膚を傷つけました」
返事はない。
「三日前、茶器を割ったことを理由に、月給の半分を罰金として取り上げました。二週間前には、呼び出しが遅れたとして二日分の賃金を減らしています。その時、あなたは厨房で火傷をした侍女の手当てをしていたと、別の記録にありました」
フェルニカの瞳が揺れた。
「先月は休暇を三度取り消しています。三度目だけ、理由が書かれていません。何があったのですか」
長い沈黙のあと、フェルニカが答えた。
「妹に会いに行く予定だと申し上げたからです」
「それだけですか」
「お嬢様は、仕える身でありながら、自分の都合を優先するのは許せないと」
「妹御は、どちらに?」
「王都の南区で、縫製工房に勤めておりました」
過去形だった。
リディエラの指が帳簿の紙を押す。
「今は?」
「分かりません。会いに行けるはずだった日に行けず、そのあと工房が移転しました。新しい場所を尋ねても、教えてもらえませんでした」
帳簿には、休暇取消としかない。
だが、その一日を奪ったことで、姉妹をつなぐ糸まで切れたかもしれない。
「ほかにもあります」
フェルニカの声に怒気が混じった。
「お尋ねになるのでしたら、すべて申し上げます」
「お願いします」
「冬の初め、熱を出しても休ませていただけませんでした。夜会のドレスを整えている途中で倒れ、医務室へ運ばれました。治療費は私の賃金から引かれています」
アデラが息を呑む。
「昨年、母が亡くなった時、葬儀へ出るため二日の休暇を願いました。お嬢様は一日だけなら許すとおっしゃいました。馬車代を前借りしたいと頼むと、身内の不幸を理由に主人へ金を求めるのは恥知らずだと」
フェルニカの手が、前掛けの上で握られる。
「結局、間に合いませんでした」
暖炉で薪が弾けた。
乾いた音だけが、誰も口を開かない部屋へ落ちる。
リディエラには、慰めの言葉を口にする資格がないように思えた。
つらかったでしょう。
知らなかったのです。
どれも、傷を受けた者へ届く前に、自分を守る言い訳へ変わってしまう。
「ほかには」
声が少し掠れた。
フェルニカは唇を歪めた。
「まだお聞きになりますか」
「あなたが話せる範囲で」
「何のために」
その問いは鋭かった。
「何のために、今になって一つずつ確かめるのですか。私がどこまで覚えているか調べるためですか。帳簿と違うことを言えば、嘘をついたと罰するためですか」
「違います」
「では、何ですか」
フェルニカの呼吸が乱れた。頬の傷が痛むのか、包帯へ手を当てかけ、途中で下ろす。
「突然お優しくなって、過去を並べて、何をお望みなのですか。私が泣いて感謝すればよろしいのですか。お嬢様は変わられたと、皆へ言えばよいのですか」
「何も言わなくて構いません」
「でしたら、なぜ呼び戻したのです」
リディエラはすぐに答えられなかった。
謝りたいから。
返したいから。
間違いを正したいから。
どれも自分を主語にした理由だった。フェルニカのためと言いながら、罪悪感を軽くするために赦しを求めているのではないか。
リディエラは両手を身体の前で重ねた。
「あなたを殴ったこと、賃金を奪ったこと、必要な休暇を認めなかったこと、治療費まで負担させたことを謝罪します」
頭を下げる。
長い黒髪が肩から滑り、頬の脇へ垂れた。
「申し訳ありませんでした」
喉の奥が焼けるように熱い。
それでも、許してほしいとは言わなかった。許しを求めれば、フェルニカへ返事を迫ることになる。
本当の自分は違うとも言わない。中身が別人であることは、傷を負った側には関係がない。
これから信じてほしいとも言わない。信頼は、加害した側が期限を決めて要求するものではなかった。
リディエラは顔を上げ、フェルニカの目を見る。
「謝罪はします。ただし、許すかどうかを決めるのはあなたです」
フェルニカの喉が小さく動いた。
「私は、許しません」
声は静かだった。
怒鳴られるよりも、逃げ道がなかった。
リディエラは頷く。
「分かりました」
「分かるはずがありません」
「そうかもしれません」
「謝れば終わると思っておられるのでしょう」
「終わるとは思っていません」
「では、どうなされるおつもりですか」
リディエラは机の書面を二人から見える位置へ置いた。
「帳簿に残っている罰金と減給分を、すべて返します。医療費も公爵家の負担へ訂正します。取り消した休暇は未取得分として加算します」
フェルニカの顔から、僅かに血の気が引いた。次の瞬間、怒りが浮かぶ。
「お金で解決なさるおつもりですか」
「お金だけで解決するとは思っていません」
「同じことです。金貨を渡して、これで文句はないでしょうと」
「文句を言う権利は残ります」
フェルニカが息を詰めた。
「お金で返せないものがあります。お母様の葬儀へ間に合わなかったことも、妹御の居場所が分からなくなったことも、私には戻せません。受けた恐怖や、今朝の傷を金額へ置き換えられるとも思っていません」
リディエラは書面の空欄へ視線を落とす。
「しかし、お金で返せる損害すら返さない理由にはなりません」
フェルニカは黙った。
アデラが紙へ目を落とし、支出申請書の会計印を確かめる。
「これを、私に書けと?」
「帳簿にないものを確認したいのです。ただ、あなたが書きたくないなら、私が記録から調べます。足りない分は、あとから申し出られる形にします。申告しなかったことを理由に、返還を拒むことはしません」
「命令ではないのですか」
「違います。被害を受けたあなたへ、さらに作業を押しつけるべきではありませんでした」
フェルニカは開いた扉へ一度視線を向ける。
「返していただいたとしても、私はお嬢様を信じません」
「はい」
「皆にも、変わられたなどとは申しません」
「構いません」
「今朝のことを忘れもしません」
「忘れなくてよいです」
フェルニカの眉が寄った。
「なぜ、そのようなことを」
リディエラは自分の右手を見た。
朝には血が付いていた手。いまは洗われ、傷つけた痕など何も残っていない。
「忘れてほしいと願うのは、私に都合がよいからです。痕が消えた側から、覚えている側へ忘れろとは言えません」
フェルニカの視線も、その手へ落ちる。
すぐに逸らされた。
長い沈黙ののち、彼女は机へ一歩近づいた。まだ手が届かない距離を保ったまま、書面を上から読む。
「いつ、返されるのですか」
「私財ですぐ用意できるなら本日中に。公爵家の承認が必要なら、理由と期限を書面で渡します」
「奥様がお許しになるとは思えません」
母エネファの冷たい声が、身体の記憶から蘇る。
下の者へ謝れば、つけ上がる。
痛みを覚えさせなければ、忠誠は得られない。
「許可が必要かどうかも含めて調べます」
「途中でお気持ちを変えられたら?」
「申請書と帳簿の写しを、あなたとアデラへ渡します。もう一部は会計係へ。私が撤回したことが分かるようにしてください」
アデラが初めて口を開いた。
「私が保管しても、よろしいのでしょうか」
「ええ。私だけが持つことはしません」
二人の間で、短い視線が交わされる。
やがてフェルニカは紙の端へ触れた。
「必要なことだけ、お答えします」
「お願いします」
「帳簿にない罰金は、金貨二枚です。昨年の夏、香水瓶を倒したとして」
「実際に倒したのは?」
「窓から入った猫です。ですが、窓を閉め忘れた私の責任だと」
リディエラは書き込む。
羽根筆が紙を擦る音だけが続く。
「治療費は、冬の発熱で銀貨十二枚。厨房で腕を火傷した時に銀貨六枚です」
「火傷は、私の命令に関係していますか」
「夜会からお戻りになったあと、湯浴みをすぐ用意するよう命じられました。湯が熱すぎるとお叱りになり、桶を蹴られました」
筆先が止まる。
「その湯で?」
「腕にかかりました」
「痕は残っていますか」
「ございます」
見せてほしいとは言わなかった。
確認のためでも、傷痕を晒すよう求めるべきではない。
「医師の記録を確認します。記録がなくても、最初からあなたの申告を嘘とは決めません」
フェルニカは、疑うようにリディエラを見る。
「アデラや医師への確認はするかもしれません。ただし、あなたを罰するためではなく、支払う記録を整えるためです」
窓の外から鐘が聞こえた。
空中の赤い時間は、今も減っている。
それでもリディエラは急かさなかった。
フェルニカは、奪われた金額と日付を一つずつ答えた。休暇を取り消された日。夜通し働かされた回数。主人の機嫌を損ねたとして食事を抜かれた夜。新しい靴のために貯めていた金を、壊れてもいない髪飾りの弁償へ充てさせられたこと。
リディエラは黙って書いた。
途中で弁解せず、身体に残る記憶と食い違っても訂正を求めなかった。
紙の上へ並ぶ数字は、好感度より重かった。
金貨二枚。
銀貨十八枚。
休暇七日。
食事四回。
返せるものと、二度と返せないものが、同じ頁に並んでいる。
最後の項目を記し終えると、フェルニカは深く息を吐いた。怒りを吐き出して軽くなったのではない。傷口を一つずつ開いたために、朝よりも疲れて見えた。
「以上でございます」
「話してくださったことを、軽く扱いません」
フェルニカは答えなかった。
アデラが書面と帳簿の写しを受け取る。紙を折らず、胸元へ抱えるように持った。
フェルニカは形式だけの礼をし、扉へ向かう。
廊下へ出る直前、彼女は足を止めた。
振り返らないまま、低い声で言う。
「謝罪は、受け取りません」
「分かりました」
「返還されるものは受け取ります。母の葬儀へ行けなかったこととは、別ですから」
リディエラは胸の前で指を握った。
「はい。別のことです」
フェルニカの肩が僅かに揺れた。
扉が閉まる。
一人になった部屋で、暖炉の火がひどく遠く見えた。
リディエラは椅子へ腰を下ろし、書き込んだ頁を見つめる。
謝罪はした。
許されなかった。
当然だった。
胸の奥に鈍い痛みはある。謝れば、少しは表情が和らぐのではないかと期待していた自分もいた。
その期待を、相手へ背負わせてはいけない。
リディエラは頁の端へ、一文を書き足す。
謝罪と返還は、赦しの代価ではない。
記録を終えた指には、羽根筆の軸が食い込んだ赤い跡が残っていた。フェルニカの傷に比べれば、痛みと呼ぶほどのものではない。それでもリディエラは、指先を無意識に擦ろうとして止める。自分の小さな痛みだけを先に慰める仕草が、ひどく身勝手に思えた。
前世では、謝ったあとに相手が笑わないと不安になった。母が黙ったままなら、謝り方が足りなかったのだと思い、さらに自分を下げる言葉を探した。そうして相手の機嫌が直れば、問題も消えたことにしていた。
だがフェルニカの怒りは、リディエラが耐えるためにあるのではない。彼女が受けた損害の形であり、奪われたものを奪われたままにしないための境界だった。謝罪した自分が苦しいからといって、その境界を越える権利はない。
筆を置いた瞬間、淡い光が視界へ浮かんだ。
フェルニカの名だった。
だが、五人の攻略対象にあった数字はない。
〈フェルニカ・ロウゼ:警戒継続〉
それだけだった。
好意が上がったとも、信頼を得たとも書かれていない。
リディエラは落胆しなかった。
謝罪は、好かれるためにしたものではない。
数値が変わらなくても、許されなくても、返すべきものは返さなければならない。
表示が消えた直後、机の上の返還帳簿が、風もないのに一枚だけめくれた。
白い頁の中央へ、見覚えのない黒い文字が滲み出す。
〈悪役令嬢の役割から逸脱しました〉
続いて、もう一行。
〈生存ポイント:100→97〉
謝罪したことで、命が削られた。
赤い数字の横で、暗殺までの時間だけは変わらず減り続けている。
返すべきものを返せば、生き残るための猶予が減る。過去のリディエラと同じように振る舞えば、世界は彼女を正しい位置へ戻すのだろう。
リディエラは震えかけた手で帳簿を閉じた。
その表紙の下から、先ほどまでなかった黒い紙片が半分だけ覗いていた。引き抜くと、白い文字が一行だけ浮かぶ。
〈正しい悪役令嬢へ戻ってください〉
ロディマスを探すことに、リディエラは少し迷った。先王妃アリエネの葬儀や老犬ルーディの夜について聞いたばかりで、さらに王太子の内側を弟から引き出せば、結局は黒ミッションのために弱点を集めることになる。今朝決めたのは、泣く理由を作るのではなく、泣いても困らないと思える状況を探すことだった。そのために弟の秘密を利用するのなら、選択肢を閉じた意味がない。リディエラは黒い帳簿へ、「兄の傷ではなく、弟自身が兄との関係をどう感じているかだけを聞く」と一行書き、学院北側の小さな射場へ向かった。 午後の射場には乾いた草の匂いと弦が空気を切る短い音が漂っていた。ロディマスは王族用の練習区画で一人、標的へ矢を射ていたが、放たれた一本は中心からわずかに右へ外れた。白金の髪の少年は「外した」と低く呟き、次の矢を取ろうとして入口のリディエラに気づくと、明るい青の瞳を露骨に細めた。前に資料室で話した時より警戒が強く、弓を下ろしながらも自分から近づこうとはしない。「今度は何を聞きに来た」「少しだけ、お話しできればと思って」「兄上のことなら嫌だ。母上のことも、ルーディのことも話しただろ。あれ以上、兄上の弱みを教えるつもりはない」 返事は取りつく島もなかったが、それは当然の拒絶だった。ロディマスの立場から見れば、婚約者でありながら兄の過去を調べ回っているリディエラが、何かに使うため弱点を探しているように見えてもおかしくない。黒ミッションを抱えている以上、「絶対に利用しない」と将来まで保証することにもためらいがあったが、少なくとも今日ここへ来た目的だけは違う。リディエラは標的と少年の間を避け、射線から十分離れた場所に立った。「殿下を傷つける材料にするつもりはありません」 ロディマスの眉が動いた。「……兄上を?」「はい。今日は、あなたがお兄様といる時にどう感じているのかを聞きたいのです」「僕の気持ちを知って、どうする」「今は何もしません。ただ、殿下が誰かを守ろうとする時、守られる側にはどう見えるのかを知りたいと思いました。話したくなければ、ここで終わります」 風が射場を抜け、積まれた藁束を乾いた音で擦った。ロディマスはすぐには答えず、矢筒へ戻した矢羽を指先で整えながら、何度かリディエラの顔を確かめる。やがて彼は近くの長椅子へ腰を下ろし、弓を隣に置いた。話すと決めたというより、ど
目を覚ました時、窓の外はまだ朝になりきっていなかった。薄い雲の向こうから青白い光が差し、寝台の天蓋と床の境目を曖昧にしている。昨夜の雨は止んでいたが、窓硝子には水滴が残り、暖炉の灰からは湿った薪の匂いが漂っていた。リディエラは上掛けの中で一度深く息を吸い、視界の隅に残っている黒い表示へ目を向けた。〈黒ミッション残り時間:48時間00分00秒〉 数字が切り替わり、〈47時間59分59秒〉へ変わった。その下に見慣れない白い枠が開き、黒い画面の中央へ細い銀線が走る。これまでにはなかった項目が、命令ではなく助言を装うように静かに浮かんだ。〈推奨攻略〉〈先王妃アリエネ関連イベントを使用してください〉 リディエラの指先から、眠気が消えた。昨夜、ティルヴァンと向かい合って食事をしたばかりだった。香りの強い根菜を最後に食べる理由を聞き、雨の日を好む理由を聞いた。先王妃についてどこまで知ったのかと問われた時にも、彼が今その話を聞きたいかを確かめ、本人が「今日はいい」と答えたところで止めた。それを遠回りだとでも言いたげに、黒い画面がさらに広がった。〈推奨選択肢〉〈A:母親の死を責める〉〈B:無実の侍従を処刑した罪を指摘する〉〈C:母親の遺品を破壊する〉〈D:自身が理解者であると告げる〉 最初の3つを読んだ時には、嫌悪より先に身体が強ばった。だがDへ視線が移ったところで、リディエラはかえって長く画面を見つめた。一見すると、4つの中で最も穏やかだった。責めない。壊さない。罪を突きつけない。ただ、自分だけはあなたを理解していると伝えるだけだ。 孤独だったのですね。泣けなかったのですね。母上を失って苦しかったのでしょう。他の者には分からなくても、私は分かります――そんな言葉を柔らかな声で並べればいい。暴力も毒も使わず、相手を抱き締めるような形で心の奥へ入っていける。 セフィランの顔が浮かんだ。怒ってしまったのですね。妹を羨ましいと思ったのでしょう。愛されたいだけなのではありませんか。本人より先に感情へ名前をつけ、救いたいという善意で出口を狭めていく。Dは、それと何が違うのだろう。 自分だけが理解していると宣言するには、まずティルヴァンが何を感じているかをこちらで決めなければならない。母を失って悲しい。告発した侍従のことで罪悪感がある。誰にも弱さを見せられず孤独だ
王宮の小食堂には、雨の匂いが薄く入り込んでいた。 夕方から降り始めた雨が、高い硝子窓を細かな指先で叩いている。外はすでに暗く、庭園に並ぶ魔術灯だけが濡れた石畳へ青白い光を落としていた。 長い食卓の中央には、白い花と銀の燭台。 料理は2人分。 王も王妃もいない。 今夜は、王太子とその婚約者が今後の学院行事について確認するための、形式的な夕食会だった。 少なくとも表向きは。 リディエラはティルヴァンの向かいに座っていた。 濃紺の正装。 白金の髪。 背筋はいつも通り真っ直ぐで、ナイフを持つ角度まで乱れがない。 ティルヴァンは食事中もほとんど音を立てなかった。 給仕が皿を下げる時には僅かに身体を引き、次の皿が置かれる位置を見ずとも把握している。 それを見ながら、リディエラは不意に気づいた。 自分は、この人が食事をするところを何度見ただろう。 婚約したのは幼い頃だ。 王宮の晩餐。 公爵家での食事。 学院の茶会。 隣へ座った記憶はいくつもある。 それなのに。 彼が何を先に食べるか。 何を残すか。 熱い物と冷たい物のどちらを好むのか。 食事中に話す方なのか、静かな方なのか。 そういうことを、過去のリディエラはほとんど覚えていなかった。 覚えているのは別のことばかりだ。 王太子妃らしい姿勢。 失敗しない食器の扱い。 隣国の令嬢より豪華なドレス。 母エネファが認める髪型。 ティルヴァンが婚約を解消しないために、どう振る舞うべきか。 ずっと隣にいたはずなのに、彼を見ていなかった。 見ていたのは、彼の隣に立つ自分だった。「食欲がない?」 ティルヴァンの声で、リディエラは顔を上げた。「いえ」 皿を見る。 白身魚と香草。 半分ほどしか食べていない。「少し考え事をしていました」「毒のこと?」「今日は違います」「では、魔術灯?」「それも違います」 ティルヴァンの視線が一度、リディエラの顔を確かめるように動く。「珍しいね」「何がでしょう」「君が考えていることを、こちらから当てなくても答えるのが」 責める調子ではなかった。 ただ、過去との違いを記録するような言葉。「隠す必要のないことでしたので」「隠す必要があることは、まだ多い?」 黒ミッション。 システム。 好感度。 先王妃の記録。
旧王妃庭園へ続く渡り廊下の手前で、リディエラは足を止めた。 視界の隅では、黒い表示が時刻を刻み続けている。〈推奨接触時刻まで:08分42秒〉〈対象:ティルヴァン・エルグレード〉〈対象は旧王妃庭園へ移動中です〉 あと8分。 このまま進めば、会える。 システムがわざわざ時間と場所を指定したということは、そこにティルヴァンを泣かせるための何かがあるのだろう。 亡き母の庭園。 十一歳で失った王妃アリエネ。 母の死後も涙を見せなかった少年。 老犬の亡骸の前で、「僕が悲しめば、皆が困る」 と口にしたという記憶。 そこまで材料が揃えば、何をすればよいかは想像できる。 母親の話をする。 葬儀の日を尋ねる。 泣かなかった理由を問う。 昔の傷を丁寧に撫で、閉じ込めてきたものが溢れるまで待つ。 優しく行えば、暴力には見えない。 けれど目的は同じだ。 涙を得るために、相手の最も痛い場所へ触れる。 ネレスの言葉が蘇る。 ――一番触れられたくない傷を探して、そこを抉ればいい。 リディエラは旧王妃庭園へ続く扉を見た。 白い石造りの廊下。 先には王宮警備兵が2人立っている。 通ろうと思えば通れる。 王太子の正式な婚約者であるリディエラには、その資格がある。「お嬢様?」 後ろからマルタの声がした。「参られないのですか」「……今日はやめます」 システム表示が明滅する。〈推奨接触時刻まで:07分56秒〉 命令ではない。 推奨。 ならば従わなくても、今すぐ失敗にはならない。「別の場所へ行きます」「どちらへ?」「王宮記録局です」 マルタの目が僅かに見開かれた。「先王妃陛下について、もう少し確認します」「殿下へ直接お尋ねにならないのですか」「本人へ尋ねる前に、私が何も知らなさすぎます」 自分が知りたいからと、本人にすべて説明させる必要はない。 公開されている記録から確認できるところまでは、自分で調べる。 そのうえで、なお本人へ尋ねる必要があるのか考える。 リディエラは踵を返した。 背後で推奨時刻だけが減り続けている。 王宮記録局は、王城西翼の古い棟にあった。 白亜の華やかな中央宮殿とは違い、灰色の石壁に細い窓が並ぶ実務的な建物だ。扉の上に王冠と羽根筆を組み合わせた紋章が掲げられている。 入口で身分を確認
資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている
旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない







