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第3話 侍女は主人を許さない

Autor: なつめ
last update Fecha de publicación: 2026-08-06 22:54:13

 

窓辺の時計は、細い音を刻み続けていた。

こつ、と針が進むたび、視界の赤い数字も一秒ずつ減っていく。

〈暗殺イベント開始まで:23時間34分12秒〉

リディエラは表示から目を離し、机の上の使用人帳簿を開いた。

ネレス・カルヴァディンが自分を狙う理由を探る必要がある。学院の予定も、七日後の断罪へ至る罪状も調べなければならない。それでも、最初に片づけるべきことは別にあった。

帳簿には、フェルニカの名が何度も記されている。

茶器破損による罰金。呼び出しへの遅刻による減給。主人の都合で取り消された休暇。

日付と金額だけが整然と並び、そのために彼女が何を失ったのかは、どこにも書かれていない。

リディエラは呼び鈴へ手を伸ばし、触れる前に止めた。

呼べば、フェルニカは来なければならない。顔を見たくなくても、公爵令嬢の命令を拒むことは難しい。謝罪する者が権力を使って相手を自分の前へ立たせる。それでは、また選択を奪うことになる。

リディエラは自ら扉を開いた。

廊下には、灰色がかった髪を固く結った年嵩の侍女が控えていた。主人が突然姿を見せたことに驚き、肩を強ばらせる。

「フェルニカへ、面会を願っていると伝えてください」

侍女の細い眉が動いた。

「お叱りになるのでしたら、医師から本日は安静にと申しつかっております」

「叱りません。今朝のことと、それ以前のことについて確認したいのです。ただし、会いたくないなら断って構わないと伝えてください」

「断っても、よろしいのでございますか」

問い返す声には、疑いが滲んでいた。

昨日までのリディエラなら、拒絶を許すと言いながら、あとで不敬として罰したのかもしれない。

「ええ。断ったことを理由に、何かを取り上げることもしません」

侍女はしばらくリディエラを見つめたあと、深く一礼して廊下の角へ消えた。

扉を閉めると、甘い香水と暖炉の薪の匂いが戻ってくる。

リディエラは机へ、返還額を記すための紙と支出申請書を並べた。鏡台から見つけた会計印も置く。私財がどれほどあるかは分からないが、宝飾品を売れば幾らかは作れるだろう。

やがて扉が三度叩かれた。

「フェルニカ・ロウゼでございます」

「入ってください」

最初に入ってきたのは、頬へ白い布を当てたフェルニカだった。腫れは朝より濃くなり、左目の下まで赤みが広がっている。

その半歩後ろに、褐色の髪を編み込んだ別の侍女が立っていた。盆も衣類も持たず、両手を前で重ねている。

付き添いではない。

証人だ。

以前のリディエラなら、無断で第三者を伴ったことを不敬と断じただろう。

誰の許可を得たの。

私を信用していないの。

侍女の分際で。

その言葉が、自分のものではないのに喉の近くまでせり上がる。身体の奥に残った習慣が、怒るべき場面だと訴えていた。

リディエラは机の縁から手を離し、掌を見える位置へ下ろした。

「その方は?」

「侍女のアデラでございます。私一人では、お嬢様のお言葉を正確に覚えていられないかもしれませんので、同席をお願いしました」

フェルニカの口調は整っていたが、瞳は少しも笑っていない。

「認めます。必要なら、すべて書き留めてください。扉も開けたままで構いません」

アデラが扉を大きく開いた。廊下の冷えた空気が流れ込み、暖炉の火が細く揺れる。

フェルニカは椅子を勧められる前から、出口に近い場所で立ち止まっていた。リディエラも座らず、机を挟まない位置へ立つ。

「お尋ねになりたいこととは、何でしょうか」

「私があなたへ行ったことを確認したいのです」

「今朝のことでございますか」

「今朝だけではありません」

フェルニカの肩が固くなる。アデラの衣擦れが、小さく響いた。

リディエラは帳簿を開いた。

「今朝、私はあなたの左頬を打ち、指輪で皮膚を傷つけました」

返事はない。

「三日前、茶器を割ったことを理由に、月給の半分を罰金として取り上げました。二週間前には、呼び出しが遅れたとして二日分の賃金を減らしています。その時、あなたは厨房で火傷をした侍女の手当てをしていたと、別の記録にありました」

フェルニカの瞳が揺れた。

「先月は休暇を三度取り消しています。三度目だけ、理由が書かれていません。何があったのですか」

長い沈黙のあと、フェルニカが答えた。

「妹に会いに行く予定だと申し上げたからです」

「それだけですか」

「お嬢様は、仕える身でありながら、自分の都合を優先するのは許せないと」

「妹御は、どちらに?」

「王都の南区で、縫製工房に勤めておりました」

過去形だった。

リディエラの指が帳簿の紙を押す。

「今は?」

「分かりません。会いに行けるはずだった日に行けず、そのあと工房が移転しました。新しい場所を尋ねても、教えてもらえませんでした」

帳簿には、休暇取消としかない。

だが、その一日を奪ったことで、姉妹をつなぐ糸まで切れたかもしれない。

「ほかにもあります」

フェルニカの声に怒気が混じった。

「お尋ねになるのでしたら、すべて申し上げます」

「お願いします」

「冬の初め、熱を出しても休ませていただけませんでした。夜会のドレスを整えている途中で倒れ、医務室へ運ばれました。治療費は私の賃金から引かれています」

アデラが息を呑む。

「昨年、母が亡くなった時、葬儀へ出るため二日の休暇を願いました。お嬢様は一日だけなら許すとおっしゃいました。馬車代を前借りしたいと頼むと、身内の不幸を理由に主人へ金を求めるのは恥知らずだと」

フェルニカの手が、前掛けの上で握られる。

「結局、間に合いませんでした」

暖炉で薪が弾けた。

乾いた音だけが、誰も口を開かない部屋へ落ちる。

リディエラには、慰めの言葉を口にする資格がないように思えた。

つらかったでしょう。

知らなかったのです。

どれも、傷を受けた者へ届く前に、自分を守る言い訳へ変わってしまう。

「ほかには」

声が少し掠れた。

フェルニカは唇を歪めた。

「まだお聞きになりますか」

「あなたが話せる範囲で」

「何のために」

その問いは鋭かった。

「何のために、今になって一つずつ確かめるのですか。私がどこまで覚えているか調べるためですか。帳簿と違うことを言えば、嘘をついたと罰するためですか」

「違います」

「では、何ですか」

フェルニカの呼吸が乱れた。頬の傷が痛むのか、包帯へ手を当てかけ、途中で下ろす。

「突然お優しくなって、過去を並べて、何をお望みなのですか。私が泣いて感謝すればよろしいのですか。お嬢様は変わられたと、皆へ言えばよいのですか」

「何も言わなくて構いません」

「でしたら、なぜ呼び戻したのです」

リディエラはすぐに答えられなかった。

謝りたいから。

返したいから。

間違いを正したいから。

どれも自分を主語にした理由だった。フェルニカのためと言いながら、罪悪感を軽くするために赦しを求めているのではないか。

リディエラは両手を身体の前で重ねた。

「あなたを殴ったこと、賃金を奪ったこと、必要な休暇を認めなかったこと、治療費まで負担させたことを謝罪します」

頭を下げる。

長い黒髪が肩から滑り、頬の脇へ垂れた。

「申し訳ありませんでした」

喉の奥が焼けるように熱い。

それでも、許してほしいとは言わなかった。許しを求めれば、フェルニカへ返事を迫ることになる。

本当の自分は違うとも言わない。中身が別人であることは、傷を負った側には関係がない。

これから信じてほしいとも言わない。信頼は、加害した側が期限を決めて要求するものではなかった。

リディエラは顔を上げ、フェルニカの目を見る。

「謝罪はします。ただし、許すかどうかを決めるのはあなたです」

フェルニカの喉が小さく動いた。

「私は、許しません」

声は静かだった。

怒鳴られるよりも、逃げ道がなかった。

リディエラは頷く。

「分かりました」

「分かるはずがありません」

「そうかもしれません」

「謝れば終わると思っておられるのでしょう」

「終わるとは思っていません」

「では、どうなされるおつもりですか」

リディエラは机の書面を二人から見える位置へ置いた。

「帳簿に残っている罰金と減給分を、すべて返します。医療費も公爵家の負担へ訂正します。取り消した休暇は未取得分として加算します」

フェルニカの顔から、僅かに血の気が引いた。次の瞬間、怒りが浮かぶ。

「お金で解決なさるおつもりですか」

「お金だけで解決するとは思っていません」

「同じことです。金貨を渡して、これで文句はないでしょうと」

「文句を言う権利は残ります」

フェルニカが息を詰めた。

「お金で返せないものがあります。お母様の葬儀へ間に合わなかったことも、妹御の居場所が分からなくなったことも、私には戻せません。受けた恐怖や、今朝の傷を金額へ置き換えられるとも思っていません」

リディエラは書面の空欄へ視線を落とす。

「しかし、お金で返せる損害すら返さない理由にはなりません」

フェルニカは黙った。

アデラが紙へ目を落とし、支出申請書の会計印を確かめる。

「これを、私に書けと?」

「帳簿にないものを確認したいのです。ただ、あなたが書きたくないなら、私が記録から調べます。足りない分は、あとから申し出られる形にします。申告しなかったことを理由に、返還を拒むことはしません」

「命令ではないのですか」

「違います。被害を受けたあなたへ、さらに作業を押しつけるべきではありませんでした」

フェルニカは開いた扉へ一度視線を向ける。

「返していただいたとしても、私はお嬢様を信じません」

「はい」

「皆にも、変わられたなどとは申しません」

「構いません」

「今朝のことを忘れもしません」

「忘れなくてよいです」

フェルニカの眉が寄った。

「なぜ、そのようなことを」

リディエラは自分の右手を見た。

朝には血が付いていた手。いまは洗われ、傷つけた痕など何も残っていない。

「忘れてほしいと願うのは、私に都合がよいからです。痕が消えた側から、覚えている側へ忘れろとは言えません」

フェルニカの視線も、その手へ落ちる。

すぐに逸らされた。

長い沈黙ののち、彼女は机へ一歩近づいた。まだ手が届かない距離を保ったまま、書面を上から読む。

「いつ、返されるのですか」

「私財ですぐ用意できるなら本日中に。公爵家の承認が必要なら、理由と期限を書面で渡します」

「奥様がお許しになるとは思えません」

母エネファの冷たい声が、身体の記憶から蘇る。

下の者へ謝れば、つけ上がる。

痛みを覚えさせなければ、忠誠は得られない。

「許可が必要かどうかも含めて調べます」

「途中でお気持ちを変えられたら?」

「申請書と帳簿の写しを、あなたとアデラへ渡します。もう一部は会計係へ。私が撤回したことが分かるようにしてください」

アデラが初めて口を開いた。

「私が保管しても、よろしいのでしょうか」

「ええ。私だけが持つことはしません」

二人の間で、短い視線が交わされる。

やがてフェルニカは紙の端へ触れた。

「必要なことだけ、お答えします」

「お願いします」

「帳簿にない罰金は、金貨二枚です。昨年の夏、香水瓶を倒したとして」

「実際に倒したのは?」

「窓から入った猫です。ですが、窓を閉め忘れた私の責任だと」

リディエラは書き込む。

羽根筆が紙を擦る音だけが続く。

「治療費は、冬の発熱で銀貨十二枚。厨房で腕を火傷した時に銀貨六枚です」

「火傷は、私の命令に関係していますか」

「夜会からお戻りになったあと、湯浴みをすぐ用意するよう命じられました。湯が熱すぎるとお叱りになり、桶を蹴られました」

筆先が止まる。

「その湯で?」

「腕にかかりました」

「痕は残っていますか」

「ございます」

見せてほしいとは言わなかった。

確認のためでも、傷痕を晒すよう求めるべきではない。

「医師の記録を確認します。記録がなくても、最初からあなたの申告を嘘とは決めません」

フェルニカは、疑うようにリディエラを見る。

「アデラや医師への確認はするかもしれません。ただし、あなたを罰するためではなく、支払う記録を整えるためです」

窓の外から鐘が聞こえた。

空中の赤い時間は、今も減っている。

それでもリディエラは急かさなかった。

フェルニカは、奪われた金額と日付を一つずつ答えた。休暇を取り消された日。夜通し働かされた回数。主人の機嫌を損ねたとして食事を抜かれた夜。新しい靴のために貯めていた金を、壊れてもいない髪飾りの弁償へ充てさせられたこと。

リディエラは黙って書いた。

途中で弁解せず、身体に残る記憶と食い違っても訂正を求めなかった。

紙の上へ並ぶ数字は、好感度より重かった。

金貨二枚。

銀貨十八枚。

休暇七日。

食事四回。

返せるものと、二度と返せないものが、同じ頁に並んでいる。

最後の項目を記し終えると、フェルニカは深く息を吐いた。怒りを吐き出して軽くなったのではない。傷口を一つずつ開いたために、朝よりも疲れて見えた。

「以上でございます」

「話してくださったことを、軽く扱いません」

フェルニカは答えなかった。

アデラが書面と帳簿の写しを受け取る。紙を折らず、胸元へ抱えるように持った。

フェルニカは形式だけの礼をし、扉へ向かう。

廊下へ出る直前、彼女は足を止めた。

振り返らないまま、低い声で言う。

「謝罪は、受け取りません」

「分かりました」

「返還されるものは受け取ります。母の葬儀へ行けなかったこととは、別ですから」

リディエラは胸の前で指を握った。

「はい。別のことです」

フェルニカの肩が僅かに揺れた。

扉が閉まる。

一人になった部屋で、暖炉の火がひどく遠く見えた。

リディエラは椅子へ腰を下ろし、書き込んだ頁を見つめる。

謝罪はした。

許されなかった。

当然だった。

胸の奥に鈍い痛みはある。謝れば、少しは表情が和らぐのではないかと期待していた自分もいた。

その期待を、相手へ背負わせてはいけない。

リディエラは頁の端へ、一文を書き足す。

謝罪と返還は、赦しの代価ではない。

記録を終えた指には、羽根筆の軸が食い込んだ赤い跡が残っていた。フェルニカの傷に比べれば、痛みと呼ぶほどのものではない。それでもリディエラは、指先を無意識に擦ろうとして止める。自分の小さな痛みだけを先に慰める仕草が、ひどく身勝手に思えた。

前世では、謝ったあとに相手が笑わないと不安になった。母が黙ったままなら、謝り方が足りなかったのだと思い、さらに自分を下げる言葉を探した。そうして相手の機嫌が直れば、問題も消えたことにしていた。

だがフェルニカの怒りは、リディエラが耐えるためにあるのではない。彼女が受けた損害の形であり、奪われたものを奪われたままにしないための境界だった。謝罪した自分が苦しいからといって、その境界を越える権利はない。

筆を置いた瞬間、淡い光が視界へ浮かんだ。

フェルニカの名だった。

だが、五人の攻略対象にあった数字はない。

〈フェルニカ・ロウゼ:警戒継続〉

それだけだった。

好意が上がったとも、信頼を得たとも書かれていない。

リディエラは落胆しなかった。

謝罪は、好かれるためにしたものではない。

数値が変わらなくても、許されなくても、返すべきものは返さなければならない。

表示が消えた直後、机の上の返還帳簿が、風もないのに一枚だけめくれた。

白い頁の中央へ、見覚えのない黒い文字が滲み出す。

〈悪役令嬢の役割から逸脱しました〉

続いて、もう一行。

〈生存ポイント:100→97〉

謝罪したことで、命が削られた。

赤い数字の横で、暗殺までの時間だけは変わらず減り続けている。

返すべきものを返せば、生き残るための猶予が減る。過去のリディエラと同じように振る舞えば、世界は彼女を正しい位置へ戻すのだろう。

リディエラは震えかけた手で帳簿を閉じた。

その表紙の下から、先ほどまでなかった黒い紙片が半分だけ覗いていた。引き抜くと、白い文字が一行だけ浮かぶ。

〈正しい悪役令嬢へ戻ってください〉

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